ここは居酒屋「大将」。
店は満席で、厨房からは威勢の良い声が響いている。
いつものように、浩一、智やん、ケイタの三人が、楽しそうに話し込んでいる。
智やんが言った。
「浩一、なんか元気ないな」
浩一は、どこか浮かない顔をしている。
「そうなんだよ。昨日、会社でキャリアプランのセミナーがあってさ。
同年代の課長職が全員集められて、役職定年後の役割の変化とか、
定年後のコミュニティや人間関係の大切さとか……
まあ、そんな内容だったんだよ」
「聞いてるうちにさ、
『もう早く会社を辞めてほしいのかな』って、
そんなふうに思っちゃってさ」
「これまでの仕事の棚卸しとか、価値観の見直しとかするんだけど、要するに会社の中での役割が今までとは違うんだよって。
会社にとって、俺の二十年、三十年の会社員人生って
何だったんだろうな、って思ってさ」
ケイタが言った。
「何言ってんだよ。
フリーランスの俺からしたら、羨ましいくらいだ。
定年後の心配までしてくれるなんて、日本の会社は、本当に優しいよ」
智やんが言った。
「フリーグラー牧師の問い、って知ってるか?」
「『何によって覚えられたいか』っていう問いだよ」
「フリーグラー?」
ケイタは首をかしげる。
「知らん。フルグラなら毎日食べてるけどな」
智やんが言った。
「違う違う。ドラッカーの本に出てくるんだよ。
『プロフェッショナルの条件』って本に書いてある」
「フリーグラー牧師の言葉として紹介されててさ、
十三歳の子どもに
『何によって覚えられたいか?』って問いかけるんだけど、
誰も答えられないんだ」
「そこで牧師は言う。
『今、答えられなくてもいい。
でも、五十を過ぎてこの問いに答えられなかったら、
その人は人生を無駄にしたことになるよ』って」
「まあ、要するに、
何を目指して生きるのか、
成長を促す言葉だよな」
智やんは続けた。
「この言葉は名言だと思うんだけどさ、
最近、もう一つ大事な問いがあると思ったんだよ」
「『誰によって覚えられたいか?』っていう問いも、
必要なんじゃないかなって」
浩一が言った。
「それは、どういう意味だ?」
智やんが答える。
「例えばさ、
メガバンクの頭取とか、
総合商社の社長の名前って知ってるか?」
「とんでもなく優秀で、
すごい実績を残した人たちだと思うけど」
浩一とケイタがハモリながら言った。
「いや、全く知らん」
智やんも続ける。
「まあ、そうだよな。
社内とか取引先以外の人は、
たぶん知らんよな」
ケイタは笑って言った。
「向こうも、俺たちのことなんか
もっと知らんけどな」
智やんは続ける。
「どんな頭取や社長でも、
いつかは引退して会社を去る」
「そうなったら、最後は
俺たちとあんまり変わらないんじゃないかな」
「そりゃ、俺たちと貯金残高は比べ物にならないけど、晩年の人生の充実感は別のところにあるのかなって」
「名声を得て、誰かに自分を意味のある存在として
認めてほしい。
多くの人に知ってほしい。
それは自然な気持ちだと思う」
「でも、遠くへ手を伸ばせば伸ばすほど、
それは蜃気楼みたいに消えていく」
「それよりも、
手が触れられる範囲で、
自分にとって大事なことを
誠実にやっていく」
「それでいいんじゃないかな」
浩一が言った。
「そうだな。
確かに、メガバンクの頭取の名前は知らないけど、
俺の昔の上司、谷本さんのことは忘れられない」
「本当にいい上司でさ。
俺が海外転勤した後も気にかけてくれて、
よく電話してくれたんだ。」
「出世には恵まれなかった人だったけど、
今でも本当に感謝してる」
ケイタが言った。
「ちょっと話変わるけどさ。
この前、ノーベル化学賞を取った
京大の教授、知ってるか?」
「金属有機構造体っていうやつを開発した人でさ。
ジャングルジムみたいな構造で、
たくさん隙間があって、
そこに狙った気体を吸着して
閉じ込めるんだって」
智やんが言った。
「おっ、なんだケイタ。
急にどうした?」
ケイタは続ける。
「その教授が言ってたんだけど、
『無用の長』って言葉があるんだよ」
「一見、全く役に立たないように見えるものが、
実は大事な役割を果たしている、
っていう考え方だ」
「ドーナツの穴みたいなもんだな」
浩一が言った。
「ケイタって、
前からそんな哲学的なこと言うやつだったっけ?」
「それでな」
ケイタは目の前の皿を指さす。
「このレンコンのはさみ揚げ、どう思う?」
「どうって……
レンコンはレンコンだろ」
智やんは首をかしげる。
「智やんは、相変わらず頭固いな」
「金属有機構造体の流れで
レンコンと来たら、もう分かるだろ。
無用の長だよ」
「このレンコンの穴の中に、
ひき肉が詰まってるだろ?
俺にとっては、
もうノーベル料理賞をあげたいね」
浩一が笑いながら言った。
「そんな賞、あったか?」
「まあ、俺が今作ったんだけどな」
ケイタは言った。
「でさ、このレンコンのはさみ揚げを作った人、
名前知ってるか?」
智やんが言った。
「いや、知らんな。
大正時代くらいからある料理じゃないのか?」
ケイタがスマホを見ながら言った。
「それがさ、今調べたら、
まだ現役の方で、
高山なおみさんっていう料理家らしい」
「しかも、創作は1980年代だってさ」
浩一が驚いて言った。
「え、そうなのか。
昔からの郷土料理かなんかだと思ってたけど、
意外と最近なんだな」
ケイタは続ける。
「俺が思うにさ、
高山さんは、
世界を変えてやろうとか、
揚げ物を再発明してやろうなんて、
たぶん思ってなかったと思うんだ」
「ただ、
テーブルの向かいにいる人に、
『おいしい』って
笑顔になってもらいたい」
「その気持ちで
作った料理なんじゃないかな」
浩一が言った。
「そうだよな。
それがこんなにも広まって、
みんなに愛されてるって、
すごいことだよな」
智やんが言った。
「世の中の人に覚えてもらおうなんて
思わなくていい」
「高山さんみたいに、
目の前の人が
笑顔になる
美味しい料理を作った人、として覚えられる」
「それが、
フリーグラー牧師への模範回答のひとつなんじゃないか」
浩一がうなずいた。
「よし。
俺も、
レンコンのはさみ揚げみたいな仕事を
していこうかな」
智やんが笑って言った。
「おっ、なんか元気出てきたな」
「よし、じゃあ
レンコンのはさみ揚げ、おかわり!」ケイタは厨房へ叫んだ。


