いつもの居酒屋「肝心屋」。 今夜も、浩一、智やん、ケイタの三人は、冷えたグラスを傾けていた。
「浩一、どうしたんだよ。ひどい顔してるな」
智やんが、ジョッキを置きながら浩一の顔を覗き込んだ。
「……ああ、めちゃくちゃ忙しいんだよ。来週ISOの監査があってさ。ここ数週間、ずっと過去の標準を見直して更新してるんだ」
浩一は大手メーカーの中間管理職。 その肩には、組織のしわ寄せが重くのしかかっている。
「若手にも手伝ってもらってるけど、休日出勤まではお願いできなくてね。結局、俺が代わりに休日出勤してる始末だよ」
「へえ、上司が若手に気を遣って休日出勤か。大変だなぁ」
フリーランスのケイタが、他人事のように感心した声を出す。
「最近は上司の方がパワハラを恐れて病んでるって話、よく聞くよ」
社労士の智やんが、ドライに現状を分析する。
「若手の間じゃ、管理職は『罰ゲーム』だって言われてるらしいからな」
「本当にその通りだよ」
浩一が深いため息をつく。
「クライアントからは無茶な要求が来る。部下にはパワハラだと思われないよう神経を使う。上からはプレッシャー。……もう自由が欲しいよ」,
「自由、か」
ケイタがニヤリと笑った。
「自由といえばさ、この前ボクシングの井上尚弥選手の動画を見てたんだ。一時期、入場曲にワムの『フリーダム』を使ってたんだってな」
「懐かしいな! 俺たちの若い頃に流行ったよ。ジョージ・マイケルがいたグループだろ」
さっきまでの沈んだ空気が、少しだけ華やぐ。
「もし俺たちがボクサーだったら、リングへの入場曲は何にする?」
ケイタの突拍子もない提案に、智やんが乗った。
「面白いね。何にしようかな」
「俺はやっぱり映画『ロッキー』の、サバイバーの『アイ・オブ・ザ・タイガー』だな。……まあ浩一は『虎の目』っていうより『死んだ魚の目』だけどな」
「おい、茶かすなよ。こっちは疲れてるんだから」
浩一が苦笑いしながら答える。
「浩一なら、どんな曲にするんだ?」
「うーん……そうだな。好きな曲ならビリー・ジョエルの『オネスティ』がいいかな」
「お前なぁ」
智やんが間髪入れずにツッコむ。
「入場曲で『正直に言ってくれ』なんてしんみり歌って、どうすんだよ」
「じゃあ……U2はどうかな。『Where the Streets Have No Name(どこまでも続く道)』。あのイントロはテンションが上がる」
「ああ、いいな」
ケイタが頷く。
「静かに盛り上がるけど、強い意志を感じる。浩一に合ってるよ」
「直訳すると『名前のない道』か」
智やんが言葉を噛みしめるように言った。
「そうなんだよ。世界には名前のついた有名な道だけじゃなく、名前はないけれど、ずっと人々の役に立っている道がある」
浩一のトーンが少し変わった。
「今回、昔の標準を整理していて気づいたんだ。20年、30年前に作られた資料に、会ったこともない先人の名前がある。その人たちが残した仕事の『道』があるから、今の俺たちが滞りなく仕事ができているんだなって」
「なるほどな。会社員なんて名前が残る仕事は少ないけど、その仕事のやり方は、ちゃんと後世に引き継がれてるってわけか」
智やんが感心したように頷く。
「……ところで智やん、お前のテーマソングは決まったのか?」
「俺はプリンスだよ。プリンスの『Let’s Go Crazy』」
「プリンスか! 懐かしいな」
「プリンスって一時期、名前を記号に変えて『かつてプリンスと呼ばれた男(The Artist Formerly Known as Prince)』って名乗ってたよな」
ケイタが知識を披露する。
「そうそう。俺もそれくらいビッグになって、『かつて智やんと呼ばれた男』なんて呼ばれてみたいね」
「でもそれ、日本だとどう略されてたか知ってるか? 『元プリ』だぜ」
ケイタがさらに畳みかける。
「智やんなら『元智(もととも)』……いや、言いにくいな。……『元やん』だな!」
「元やんって、元ヤンキーみたいじゃないか。全然意味が違うだろ!」
智やんの抗議に、浩一とケイタが声を上げて笑った。
「まあいいじゃないか。元やんに……乾杯!」
「おい!」
三人の笑い声が、夜の肝心屋に響き渡った。
~今宵はこの辺でお愛想で~
店主・神西 仁



